汚れなき酒の反吐、バイバイの冬

 ばいばい、アース〈上〉

 むかーし読んだ冲方大先生のファンタジー。面白かったけど内容は完全に忘れた。

色んなものが捨てられていく冬である。何かに対する過剰な期待、言い換えるなら「こだわり」が放棄されていく冬。命が放棄される準備なのか。そんなこととは関係ない偶然か。私には何も分からない。

捨てることになったあれこれを記していく。しょうもないものばかりだが、私にはどれも意味深く感じる。

バイバイ、オナニー

そしてバイバイ、オナ禁。

同じことだ。

冬に入った頃、オナ禁に対する過剰な期待が無くなった。それはすべてを変える裏ワザだと期待して半年も続けた。決して悩まぬ迷わぬ、超越した人間になるかもしれないと。第六感が発達し、悟りに触れられるかもしれないと。

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結果、多分そんなことはないだろうという気になった。オナ禁効果について私は何も断言しないでおく。あるかもしれないし、ないかもしれない。分からないが、私は大した意味は無い気がする。とりあえず私の期待は失われた。こうして書いている今、10日くらいオナニーしていないが、そのことで私が少しでもマシな人間になるとは考えていない。オナニーすることでマシになるとも考えてない。してもしなくてもいいことで、私は今たまたまオナ禁している。オナニーにこだわる必要もなくオナ禁にこだわる必要もない。選択したような気になって、どちらかやればいい。ただしあなたは何も選択出来ない。

オナ禁は暇つぶしの一環である。何か変化はあるだろう。オナ禁してようがしてまいが、見かけの上の人は、見かけの上で常に変化する。ただオナ禁しているとその変化が判りやすく、ちょっと面白いというだけだ。

オナ禁は暇つぶしに良い。私の場合、こうしてウェブ日記を書く際のネタにもなる。何かを書くことが私の暇つぶしである。それがないとますます死にたくなることが分かった。生きることは必死の暇つぶしである。TVゲームでそれが出来る間はそうすればいいが、私はもう無理だということが分かった。

バイバイ、ゲーム

いつかまたゲームに熱中してやろう、小学生や中学生の時のように。と、ずっと思っていた。いったん自分にゲームを許可したら、一生ハマり続けるだろうと思っていた。まずは昔ハマったゲームをやり尽くし、それから新しいゲームをして……と。

年末、ミニスーパーファミコンを買った。これでしばらくは遊べるだろうと踏んだ。収録されたゲームソフトの数は限られているが、やりこめば半年くらいは暇つぶしになってくれるのではないか、と。

大晦日と元旦、引きこもってゲームをしまくった。マリオRPG、ドンキーコング、ロックマンXをクリアする。しかし、やっている間ずっと「なんか思ってたより楽しくない」という気分でいる。子供の頃はあんなに楽しかったのに。楽しむというより、さっさと片付けるべき作業をこなしている感じ。その時の私の気持ちを一言でいうなら――「早くやめたい」

気持ちは苛立ち、焦り、これなら何もしないでボーッとしてた方がマシだという精神状態になる。ミニスーパーファミコンはたった2日遊んで、片付けてしまった。

ずっと抱いていたTVゲームに対する期待。それさえあれば一生暇つぶしできるに違いないという幻想。これが元旦に棄てられた。

ついでに最近、アニメへの期待もどこかへ行ってしまった。それは前回の記事で書いたことである。

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バイバイ、スピリチュアル

バイバイ、現実主義。

同じことだ。

まず奇跡講座への「こだわり」。これは今、気が向いたらワークをやる程度で、これが私を別人のように進化させるという期待は失われている。前向きなマインドセットをさせるワークは自己セラピーとしては良い。だが、ワンネス(大いなる一、一なる自己、などと訳される)として自分を捉えるなんてのは不可能。それが不可能であるのが人間なのだから。私は奇跡講座に期待しすぎていた。そして期待は捨てられた。

関連記事:『奇跡講座』に大した意味は無い

私が心酔した『バーソロミュー』も、色んなことを言ってるが、読んでも結局具体的にどうすりゃいいのかなんてのは分からないし、それが本当なのかは分からないんだから大した意味は無い。だが、影響を受けたことは間違いない。癒されたことも間違いない。あくまで、この本に対する過剰なこだわりが無くなったというだけで、今でもオススメできる本だとは思っている。

関連記事:神秘の必読書。正直、これ一冊だけでも十分。

伝統的宗教もそうだ。それぞれが、まるであの世を見てきたように好き勝手な妄想をまくしたて、決して手の届かぬ救済への努力という物語を作りあげている。

瞑想をすれば心が落ち着く。ネガティブ感情が和らぐ。それは間違いない。瞑想、ないしはマインドフルネスという手法は心理療法として効果的であることを私は身を持って実感した。だが、それは私を「別の人間」にはしなかった。解放は生きている間には無いという確信は瞑想によって強まった。私は瞑想に期待しすぎていた。そして、期待は放棄された。

関連記事:瞑想に大した意味は無い

答えはない。それしか言えない。どれかが答えであるとしても、それを知る術は絶対的に無い。それは答えが無いというのと同じ。「心が分かる」「感情が答えを知ってる」といったアンチ理論な考えも一つの教義にすぎず、それが答えと知る術はない。

救済に対する期待は放棄された。

バイバイ、アマゾン

「アマゾン無しでは生きていけねえよ」なんて言うアマゾンフリークだった。何を買うにも「アマゾンでいいだろ」って感じ。洗剤や食料品まで。私はこの企業のサービスに依存しているとはっきり自覚していたし、それでいいと思っていた。別に、今もそれでいいと思う。

だが、クレカが停止したのでネットで買い物ができなくなった。過去にケータイ料金を何度も滞納しており、私のクレヒスは元々かなり危ない点数であることは確実だった。しかも貯蓄は少ない。そこへきて、スーパーなどでの精算にクレカを使うようになって利用額が上がった。で、定期審査落ち。

アマゾンを使うことはなくなった。それは主に、キンドル本を買うことが無くなったということを意味する。

ちょうどいい。新しい本を買うというのはやめられない癖のようなものだった。次々と新たな本を求めるのはやめにたかったところへ、実質Kindleが縛られたので好都合。今後、支出も減るだろう。

無用な消費行動が放棄された。

読書への強迫観念が放棄された。

バイバイ、長い夢

二度ほど、私があるアイドルのちょっとしたおっかけであるということを書いた。

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「単なる趣味である」と自分に言い聞かせて続けていたが、それはカッコつけだと、やっと私は認めた。私はアイドルオタクではない。この子に、最初バイト先で見たときの特別な感情をまだ抱いていたから、たまにライブを見に行っていたのだ。この執着を、そろそろ捨てなければいけない。これでは私はどう考えてもヤバい奴であるし、不毛な行為である。彼女に好きな人がいることも二年前に偶然知っていた。なので変な期待は無かったつもりなのだが、執着が残っていたのだろう。

ただの一般人ならこんなことにはならない。見に行ったらただのストーカーである。だが、彼女はちょくちょくライブをやる。思い立った時に見に行くことが可能だったということが、幻が引き伸ばされた原因。

だが幻にこだわるのはおしまいだ。この幻を捨てる。そう決めて年末、最後に彼女のステージを観た。

前の方で声を上げて手を降っているオタク達に、いつも私は加わることが出来なかった。羨ましいなと思いながらも、どうしても恥ずかしかった。だがその日は、最近あまり飲まない酒をガブ飲みして前の方で思いっきり楽しんだ。コールなど知らなかったが、隣の人の見よう見まねで、手を振って声を出した。最後に全力で楽しもうと思った。

彼女の十八番である『君の知らない物語』を聴いている時、涙がこぼれた。酒のせいもあるだろう。だが、私は今までにないほど感動していた。大して上手くない彼女の歌が妙なほど泣けたのだ。私は楽しんで、感動し、これでおしまいに出来ることを確信した。それと同時に「今まで往生際悪く追いかけてきてよかった」と思った。

久々に泥酔して家路につく。嘔吐し、身体はフラフラだったが達成感があった。次の日は二日酔いだったが、憑き物が落ちたような気分だった。

三年前、バイト先で彼女に会った。一目惚れであった。それから、長い夢がはじまった。彼女が舞台に立つ人間と知り、私は一ファンとなることにした。彼女が諦めず活動を続けてくれたおかげで、私は何度も夢を見ることができた。覚めぬまま、別の夢を見ては、また彼女の歌を聴きにいった。

そしてやっと私は夢から覚めた。幻想は放棄された。もう彼女を目にすることはないだろう。長い夢に終わりがきたのだ。

しかしながら……アイドルの仕事が「夢を与える」ということならば、彼女は完璧にその役割を果たしたということになる。なるほど、彼女はやはり優れたアイドルであったのだ

こうして色々と手放されていく冬。

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