心には「波」「周期」がある、それは避けられない

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心は生き物だ

波のように上がっては下がり、タイムスパンは決まってはいなくても周期的であるような満ち引きを繰り返す。それはそういう風に出来ているのだから、どうにかしようとあがいても無駄である。喜びと悲しみ、元気と不元気、愛と憎しみ、自信と落ち込み、前者が来れば後者は必ず訪れる。そのたびに「マイナスの状態になる自分は未完成だ、未熟だ」と自己卑下することはない。人は極から極へ振り子のように揺れ動くように出来ている。

私が憧れた「悟り」とはプラス状態だけを維持できるヒーローのイメージだった。戸惑ったり動揺することはなく、欲に目がくらむこともない。不安や孤独などもはや感じないアイアンマンになりたかった。しかし、そんなものがあるとすれば死んでからのお楽しみだ。

この記事でなにが言いたいかというと、しばらくブログの更新が(おそらく)休止状態になりますということだ。なぜかというと、小説をまた書き始めたからだ。

小説書くモード

もう小説書くモードにはならないと思っていた。それは私の中で「退行」だと思っていたからだ。これに関しては才能が無いと一旦諦めて、ここのところ半年くらい、一人でも何もなくても幸せであろうとしてきた。小説を書くことは、私にとって「平穏、平安」から遠ざかることだった。それは不足感への逆襲、幻想との追いかけっこ……もう終わった不毛な努力だとしていた。

実際、小説を書いている間、特にプロットを考えている間は精神的安定から遠ざかることになる。これはどうしたってそうなる。仕事などにおいて、ある段階に入った時は落ち着かなくなるとか、誰にでもそういう「戦闘モード」ってあると思います。小説に取り組んでいると、必ずそうなる。作業していたり考えている間だけでなく、起きてから寝るまでずっと緊張状態が続く。人当たりも明らかに悪くなるし、ネガティブになる。

小説を書いていない間の私はなかなか良い奴だと思う。前向きになるし、穏やかになる。書いている時よりは女性にモテる。それは経験上、明らかに分かっていたので小説という「間違った」自己救済手段は捨てたつもりだった。

だが、最近また書いている。

そしてやっぱり、殺伐とする。不安と孤独が高まる。瞑想や奇跡講座やオナ禁など色々やって進化したつもりだったが、プロットを考え始めた途端に、完全にもとの自分に戻る。

だが、以前と違うのが、それも含めてこれは良い暇つぶしなのだ、と理解していることだ。殺伐としないで、穏やかでいられる方法はすでに修得している。瞑想をしたりアファメーションを行えば、幸福感や平安はすぐに得られる。だが、あえて小説を書くのはなぜか。小説を作っている間は、瞑想をしようという気がまったく起こらない。私の中で、それは同時に両立しない。磁石のSとMを無理やりくっつけようとするような、ちぐはぐな感じがする。なので不安と焦りを持つことになる。それなのに、なぜまた小説を書いているのか。

繰り返すが、それが楽しいからだ。

不安、孤独感、絶望感。それをあえて自分は選び取るということがある。それを楽しむということがある。そういう周期である。そういう時期がある。そう今は理解している。

ひとつ思うのが、人は常になにかしてないと気が済まないということ。

ここのところブログの記事を書くことが最高の暇つぶしだった。書きたいことは結構ある。時間さえ許せば、毎日だって更新できる。だが、小説を書いている時は、ほかのことを何一つ努力しなくなる。やる気がなくなる。ちなみに金を得るためにやってる仕事も、おろそかになる。だが、おろそかになっても大したことにはならない立場と職なので、あまり気にしていない。時間も精神力もできるだけ「自分の」仕事に向けることが出来ている。底辺職の利点があるとすれば、それが最たるものだと思っている。

なにか暇つぶししてないといけない。それを「夢」とか「使命」または「義務」なのだと名付けて、それを正当化するストーリーを組み上げることで、ただの暇つぶしはよりもっともらしくなって暇つぶしとしての質が高まる。だが、そのストーリーが力を持ちすぎて、楽しみの一部であるネガティブ感情が主体を圧迫することがままある。私はそうだった。だから、はじめは楽しくて書いていた小説が、私を脅迫するようになっていた。

今も、殺伐とする。ブログ記事を書くのは簡単で気軽なのでまったく苦労は無いが、小説はそわそわするし、心細くなる。無力さを感じる。だが、それは生理的なものだからしかたがない。まだ苦労はある。

だが、ストーリーは抜け落ちている。

これは純然たる暇つぶしだ、という意識でいる。私には死ぬまでの良質な暇つぶしが必要であり、小説はやはり最高の暇つぶしであると再発見した。

今、まあまあ楽しい。「やらねば」はもうだいぶ小さくなっているので、ゆっくり進めようと思う。「やらねばならないこと」など私には無い。死を待つ間、暇つぶしをせねば気が済まないというだけだ。「得ねばならぬもの」「ならねばならぬ自分」――まったくない。そんなものは。

私は究極の腑抜けの、幸せ者である。

必ずやってくる死も楽しみにしている。

これが幸せでなくてなんだろう。

波に揺られて待つだけだ。

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