アイドルのライブに行く、ということが「起こった」

それは為したのではなく、起こったのだとしたら、ということを考えた。私は「行くと決めて行った」ような気がしている。しかしそうでない気もしている。

ぜんぶ幻と思いこみだったら、ということを考えてみる。

「私」が幻だったら? 「私が選択している」というのは思いこみとなる。私が選んだ、私が悪いことをした、というような自由意志は無いとしたら、ということを考えてみる。自由意志が無いとしたら、私もあなたも、何もしていないし、何もしたことがないということになる。

これに安心するか、侮辱を感じるかは人それぞれだ。

私は安心する。

色々おもったので書いてみる。

悪いことをした、という幻

「自由意志が無い」ということを認めると、困ったことになる。それは、罪や責任は存在しないということになるからだ。犯罪者を裁くことは無意味となってしまう。それではみんな困るので「自由意志はある」ということにしておく必要がある。

だが、人は何もできないのだとしたら。いわゆる「悪いこと」はあるが、それを「やる人」は誰もいなくなってしまう。それはただ起こった。それだけのこととなる。

また、反省することも「ただそれが起こる」ことの一つ。反省するということが起こるなら、それは起こる。それだけのこと。「反省する」ということを選べる人はいない。それはただ自然に起こる。人はそこに居ない。

こういうことを考えて、悟った気分になることを選べる人はいない。すべては「為される」のではなく「起こる」ものだから。さまざまなものに対する執着、煩悩、思考を捨てることを選べる人はいない。それは止まるまで、起こり続ける。悲しみも寂しさも後悔も、止まるまでは起こり続ける。私たちは究極的な意味で無力だが。それゆえに落ち度は無い。

「私」は幻を捨てられない

・後悔という幻

自由意志をもった「私」が存在しないなら、幻からの脱出を主体的に選択することは出来ない。だが幻を捨てるように努力することなんて、するべきではない、ということではない。努力するべきということでもない。努力が起こるなら、起こる。それは避けられない。それが「善い」とか「悪い」とかは絶対的に無い。

「私は悪いことを為した」

これは幻である。

「私は悪くない」

これでいい。ただし、それは誰も何も為してないという意味なので、他に悪い人がいるということも無くなる。あなたも誰も悪くない。罪悪感は完全な認識の誤りである。しかし、その罪悪感を完全に捨て去ることを「はい・いいえ」を選択するようには捨てられないだろう。それは止まるまでは起こる。なおかつ、最初から誰も、何も悪くないのだ。

しかし、幻の中では何でも起こる。「自由意志は無い」という考えを持ちながらも「てめえが悪い!」とキレることも起こる。怒りが起こるなら起こるで仕方がない。私やあなたが怒るのではなく、怒りが起こるのだ。罪悪感も同様。

故に「私のせい」であるようなことは存在しない。

・こだわりという幻

捨てる、ということが起きるなら起きるし、起こらないなら、それは続く。私はこの冬、色々なものに対する執着を捨てようとした。幻から逃れたかった。

参考記事:汚れなき酒の反吐、バイバイの冬

だが現状、少しだけ手元に残ったりとか。半分しか捨てられなかったりとか、そんな感じである。でも上に書いてきたようなことが心のどこかにあるので「しゃあない」という気分ではある。それは止まるなら止まるし、ちょっと起こるなら、ちょっと起こる。

以下、私本人以外にはどうでもいい記録。

足を洗ったつもりが

某アイドルのファンであるという話を以前にした。

参考記事:アイドルのファンになった話&観劇レポ

参考記事:クリスマスイブの典型的な過ごし方

・おしまいにできた!

足かけ3年くらい緩やかに追いかけていたが、年末、おしまいにしようと決めた。ここ最近いろいろとこだわりが捨てられていく感じなので、これも捨てる流れだと判断したのだ。幻を一つ一つ捨てたいという想いがあった。アイドルとは幻想を与える仕事である。生きること自体が幻想ではあるが、幻想の中でもそれは特にリアルとの分離感が強い。幻想を楽しめる器であればよかったのだが、私はそこに虚しさを感じてしまう器であった。

参考記事:汚れなき酒の反吐、バイバイの冬

年末、これで最後にしようと決めて行ったライブで区切りをつけた。私の中で、それは大成功だった。最後にちゃんとファンらしい参加の仕方が出来たからだ。翌日、時々チェックしていた彼女のツイッターを見て完全に締めにすることにした。イベントのあとは大抵「楽しかった」など前向きな報告をしていたから、前日のライブの感想を最後に見て、それを「過去の趣味」にするつもりだった。その後は、もう未練がましくツイッターを見たりするつもりも無かった。

・おしまいにするつもりが……

仕事終わり、いつも通り活き活きとした写真と言葉を発しているだろうと思って「よし、これで最後」とツイッターを開いた。だがツイートは無し。それから数日、彼女は発言をしなかった。

私としては「最後に元気な姿を見て、おしまいだ」という気でいたので、中途半端な感じになる。大晦日、さすがにハッピーニューイヤー的なことを言ったりやったりしてるだろうと思ってツイッターを開く。すると詳細は省くが、彼女の状況はハッピーではなかった。

「すぐ立ち直るだろう」と思って数日おきに確かめていたたが、1月に入ってずっと、ハッピーな感じが無い。あまり愚痴るとか弱音吐くとかしているわけではないが、写真の笑顔がどれも「悲しいけど笑ってる」という感じの顔だった。ツイートの感じからもヘコんでる感が何となく伝わってくる。こんな感じの姿を見てこれで最後ということには、とてもしにくい。

そして最近、彼女がかなり前から告知していた「大事なライブ」があった。私としては年末のライブに「これで最後」と思って行ったので、それは行くつもりがなかった。だが、その日は休日。それに今たまたま、身の回りがちょっとバタついていて、精神的に小説をかけない。すべての作業をお休みしている状況。そして小説を書かないと私はびっくりするくらいの暇人となる。寝るだけの人になる。寝るのが好きなので、土日は寝て過ごすつもりだった。

・オタクに感動

だが彼女の「大事なライブ」が近づいてくるほど切羽詰まった感じが、弱気になっている感じが彼女のツイートを通して伝わってくる。プラス私は暇である。で、行ってきた。6時間くらいの長丁場イベント。ぶっちゃけ人は少なくて、10人以下。彼女が出演するのは最初と最後だけだが、それなら1日ずっと居てやるわ! と決めて居た。いつもは彼女の出演する20分か30分くらいサクっと見て帰るだけだったので、未知の体験であった。

すると、私のほかにも、ずっと前の方に居て、声を上げ、出てくる出演者すべてを応援している人が居た。特にすごかったのが二人。ファンTシャツを着たおっさんと、よく踊る若いにいちゃん。私はそのオタク二人を尊敬した。彼らとて、出演者のすべてに興味があるわけではないだろう。しかし、その二人は6時間、声を上げて踊り続けていた。主催者の子を励ますためでもあろう。私もそのつもりでずっと立っていたが、この日だけというつもりだった。

だが彼らは、こういった無私の境地ともいえる応援を日々やっているのだ。アンコールを導いたのも、その二人のうちの一人だ。明らかに彼らが彼女のステージを支えていた。人の少ない地下アイドルのステージを背負うオタク。好きでやってるんだろうが、彼らの頑張りは損得を超えていたように思う。私は今回だけそれに参加したが、とても続けることは出来ない。彼らには感動と尊敬の念を抱いた。

・雨のち晴れ

イベントの序盤、彼女はとても申し訳なさそうな感じだった。頭の出演が終わり、後ろの方でその後の様子を見つめていた彼女はとても大人しかった。私はちょっと挨拶をして「無理しないでね~」的なことを言った。すると彼女はベンチに座り込んで泣きそうになってしまった。

ここで自由意志はあるか無いか、という話に戻る。

彼女がアイドルで無ければ、私は隣に座ったことだろう。そして「悪いことは何も起きていないのだから、あなたは何も悪くない」ということを言ったのだろうと思う。そうすべきだったのかな、とあとで考えたが、それは「しない」ということを選んだというより、そうせずに立ち去るということが、ただ起こったのだ。それ以外の可能性など、無い。

また彼女においても、ライブのセッティングが思うようにいかなくて迷惑をかけた、ということで罪悪感を抱いていたようだが、それは彼女が選んでそうしたのではなく、ただそれは起こったのだ。社会においては多くの場合トラブルに対して誰かが責めを負う必要があるが、この場合は別にそうでもない。

そんなぐだぐだ言いはしないが、まあこれが普通の女の子なら「申し訳なさそうな顔をしないでもいい」と慰めただろうと思う。実際、私は一瞬、隣に座って慰めたい衝動に駆られた。だが、私はそこを立ち去ってステージの前に行った。馴れ馴れしくしてはいけないからだ。それに私は元々バイト先で彼女を知って異性としての興味を抱いたという過去があるのだから、変な空気を作ってしまう可能性もあった。それはご法度である。私は彼女の邪魔をしにきたのではなく、応援しにきたのだ。私が出来ることは、観客として楽しむことだった。

そんなヘコんでいた彼女だが、最後は他の出演者やファンに励まされてうれし涙を流していた。元気になっていた。私は完全に疲れ果てていたが、あまり経験したことのない気分の良さを感じていた。こういう時間の使い方をしたことは今までなかった。生産的なことをしてないと! という強迫観念は今でも強い。要するにケチくさいのだ。だが、たまには誰かのためという動機で時間を使うのも悪くない。それを経験できたことが最も楽しかった。その意味で、あの場にいた人たちには感謝しかない。

・おしまいにする、というこだわり

「幻想を捨てたい」

それも、かなり強い幻想である。

「こだわりを捨てたい」というこだわりを抱いている限り、私はつよくとらわれた状態にあると言っていいだろう。それは捨てられる時がくれば、自然に捨てられるのだろう。また、捨てようとする試みがまた起こるなら、それも防ぐことはできないだろう。防ぐ、ということをする自由意志が存在しないのだから。

私はいない。私は無である。

だが、それを理解することは、これを書いている「私」には原理的に出来ない。幻の中における明晰さだけは得られるから、せめてそれを得たいと望む「私」がいる。夢の中で「これは夢だ」と気づくことがごく稀にある。だが、それが夢であることは変わらない。死という解放が訪れるまで、私はいろんな幻を抱いたり捨てたりする。

「捨てた」と言ったものは大体捨てられてない。

結局また彼女のライブに行った私がいるし、テレビゲームも気が向いたらやるし、オナ禁したりするし、オナニーしたりするし、アニメもたまに見るし、奇跡講座の「私は一なる自己である」などの謎文言を自分に言い聞かせるというワークもたまに再開するし、マインドフルネスを意識してみたりもするし、もう書かないと言っていた小説をまた書いてみたりしている。要するにいつも通りが続いている。そうしているうちに死ぬことだけが判っている。それだけが100%約束されている。だが死を選べる「私」などいない。それは訪れるべき時に訪れる。生もまた同じ。気楽なものだ。どんなにつらくてもそれは元々気楽なものである。私は何もしておらず、経験すらしていない。私が無なのだから。

それはただ起こり、経験される。

私はいない。

私が経験するのではなく、ただ経験がある。

これは純粋な経験である。

意味など無い。

これを幸せと呼ぶことにする。

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